善と私
誰かの心配をして助けたつもりが、自分が安心したかっただけ。とか誰かのためになることをしたいと主張した中に褒められたい欲があった。とか「善」の後ろに寄生するかのごとく「私」が入るのってなんなんだろ?自粛警察とか「正しい=善」の考えの元、まるで権力かの如く振り回すけど、そこにあるのは「私」を認めろって言う矮小な欲だと思うのです。欲に善の仮面を付けても本質が欲であることに変わりわないから、とても滑稽だ。「私」を見て欲しいなら善の仮面を被せて、振りかざしちゃいけない。それは「私」にも「善」にも得にならない方法だと思う。でも人は自分の存在が正しいと思わせるために善の仮面をつける。愚かしいと思っていてもやめられない。私を認めてもらうにはやっぱり圧倒的な努力が必要だと思う。だから努力し続けよう。善の仮面を被らなくても、「私」の存在を認めてもらうために。